横浜地方裁判所横須賀支部 昭和62年(ワ)87号 判決 1992年4月10日
原告
藤田昌弘
(旧姓佐藤)
右訴訟代理人弁護士
山内忠吉
同
稲生義隆
同
根岸義道
同
堤浩一郎
同
岩橋宣隆
同
森卓爾
同
小口千惠子
同
山田泰
同
影山秀人
同
中村宏
同
畑山譲
同
川又穣
被告
学校法人三浦学苑
右代表者理事
高橋孝二
右訴訟代理人弁護士
遠藤正敏
同
村瀬統一
主文
一 原告が被告に対し労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する。
二 被告は原告に対し、金二七四四万三八三〇円及びこれに対する平成三年一〇月二一日以降支払済まで年五分の割合による金員ならびに平成三年一一月以降毎月二〇日限り金二七万一二〇〇円を支払え。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
四 この判決の第二項は仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文同旨
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 被告は学校教育法により三浦高等学校(以下「三浦高校」という。)及び三浦中学校を設置することを目的とする学校法人である。
2(一) 原告は、昭和五八年一二月下旬、遅くとも昭和五九年四月七日に、被告に、初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭との条件で教職員として採用され、昭和六〇年四月一日より被告(三浦高校)の専任教諭の地位にある。
原告が被告に採用される際被告と交わした雇用契約(以下「本件契約」という。)は、初年度非常勤講師で次年度以降は健康問題等合理的理由のない限りその身分を専任教諭とする期限の定めのない契約である(そうでないとしても、健康問題など特段の事情の存否を判断して専任教諭に採用するか否か検討する一年間の試用期間の特約の付された期限の定めのない雇用契約である。)。以下詳述する。
(二) 本件契約に至る経緯
(1) 被告は、昭和五八年秋ころ、東京理科大学(以下「理科大」という。)就職課に三浦高校の数学科の教員一名の求人をし、その内容、条件などは、『教員求人申込書』と題する書面に記載されて、同年中に同大学就職課窓口に掲示された。
(2) 右『教員求人申込書』には、三浦高校の概要の他、採用条件として、『初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭』とあり、さらに、『①初年度給与・月(一六六〇×週持時間×四)。通勤費・賞与は専任教諭と同じ。夏期休暇中も支給あり。②次年度初任給一八三〇〇〇円。その他住居手当・研究費等あり。③以上は現行のものであるが、五九年度以降昇給の見込あり。希望として通勤時間一時間以内が望ましい。④交通費二〇四〇〇円まで。賞与は年三回、5.9ヶ月。昇給年一回、初年度一〇%、平均6.29%。⑤新卒とかけはなれていないこと。第一希望として男子。』等の記載がなされていた。
(3) 原告は、昭和五八年一二月ころ、右『教員求人申込書』を見て、同月ころ被告に対し応募をした。
(4) 原告は、同年同月下旬ころ、選考書類(学長と担当教授の推薦書、履歴書、教員免許証、成績証明書、卒業証明書、健康診断書)を持参のうえ、被告の面接試験を受けた。右当日、面接を行ったのは三浦高校の校長で被告の理事でもある松本彦義(以下「松本校長」という。)であるが、面接の際、松本校長は、原告に対し、「健康上問題がなければ二年目から専任をお願いします。」と申し渡し、原告を被告の教員として採用する意思を表示した。
右により、被告は、同日、原告に対し、原告を初年度非常勤講師で次年度から専任教諭とするとの内容の雇用契約につき承諾の意思表示をし、その内定をした。
(5) 昭和五九年四月七日に当該年度の始業式が行われた後、原告及び原告と同年度に被告に採用された新任教員である小林道昭(以下「小林」という。)ほか二名が校長室に呼ばれて松本校長らの挨拶を受けた際、松本校長は「小林先生と佐藤先生(原告)は知人や大学の紹介なのでよほどのことがない限り専任前提でお願いしたい。佐藤先生は健康上の問題がなければ二年目から専任としてお願いする。」と発言した。松本校長は、他の二名の新任教員に対しては、「専任の予定は全くない。」と原告らと明確に区別して発言した。
なお、被告は原告に対し、昭和五九年四月七日、『三浦高等学校非常勤講師を嘱託する。期間は昭和六〇年三月二四日までとする。』と発令事項の記載がある辞令書を交付した。右辞令書の発令事項は、初年度に期間を限った非常勤講師の発令の形をとってはいるが、これによって前記就職内定時に被告が原告に提示した、次年度から専任教諭とするとの採用条件を変更したものではない。
(6) 以上の経緯に照らせば、本件契約は、初年度非常勤講師で次年度以降は(健康問題等合理的理由のない限り)その身分を専任教諭とする期限の定めのない契約である。
(三) 原告の採用理由(定員との関係)
三浦高校数学科の教員定数は一〇名であり、うち専任教諭の定数は七名であるが、昭和五八年度の数学科は専任教諭七名、常勤講師一名、非常勤講師三名の一一名の態勢であった。
ところが、専任教諭であった吉村泰は、昭和五七年四月以降病気のため休職し、昭和五八年中ころに三浦高校への復帰が不可能であることが確定し、被告もそのころこれを知った。被告は、そこでその後任の専任教諭を採用する必要に迫られ、専任教諭として適当な人物を理科大に求人し、原告を採用した。
また、非常勤講師の米川悟も昭和五八年一二月に同年度限りで退職することが決まった(同人はその予定通り昭和五九年三月限りで被告を退職している。)。その結果、三浦高校数学科の教員数は九名となり、被告はこの点からも数学科の教員を是非とも必要とし、原告を採用した。
(四) 初年度非常勤講師、次年度専任教諭という雇用形式
被告は、昭和五三年度ころ以降、専任教諭として採用する教員のすべてにつき一年間の非常勤講師の後、次年度以降専任教諭とする方式を採用している。
例えば、数学科では、昭和五七年度に退職した藤田和秀の後任として昭和五八年度に採用された浅川俊一、昭和五八年度中に退職した岩渕俊弥の後任として昭和六〇年度に採用された車田浩道はいずれも当初一年間の非常勤講師の後次年度以降専任教諭となった。また、その他の教科でも、昭和五四年度採用の猪狩竹夫、清水正一、昭和五五年度採用の軽部徹、昭和五九年度(原告と同時)採用の前記小林、昭和六〇年度採用の小林(旧姓福田)勢以子、小沢生哉らも、いずれも当初一年間の非常勤講師の後、専任教諭となった。
この方式によって採用され一年間の非常勤講師として勤務した後、次年度以降本人の希望がありながら被告から専任教諭の地位を否定されたのは原告のみである。なお、非常勤講師でも、一年のみで退職する例は他校の教諭に採用されたりする少数の例を除きほとんどなく、本人の希望があるのに被告から非常勤講師の地位を否定されたのは少数の非行事例などを除きない。
(五) 本件契約が初年度非常勤講師で次年度専任教諭とする条件のものであったことは、原告の勤務中の被告や他の教員から受けた次のような扱いからも裏付けられる。
(1) 昭和五九年度の原告の受持時間は一週当たり一九授業時間(一授業時間は五〇分。以下同様。)であったが、これは同年度の三浦高校の全教員中で最長の時間数であり(同年度の専任教諭の受持時間は週一六ないし一七時間)、従前三浦高校において専任教諭になることが条件とされていた他の非常勤講師は概ね原告同様、専任教諭と同等の週一七ないし一八時間の受持ちをしている。また、非常勤講師の受持時間は週一二時間程度である。
(2) 原告の勤務実態も専任教諭と同様であった。
イ 原告は月曜から土曜まで毎日必ず持ち時間(授業)があり、しかもその時間割りは専任教諭と同様、持ち時間の間に空き時間(月曜日と金曜日は二時間の空き時間がある。)があってその間も拘束されるようなものとなっていた。
非常勤講師の場合は、担当授業の間隔がなるべく空かないように時間割が作成されている。
ロ 原告は当時の教科主任である山之内教諭の指示に従い毎週数学の教科会議にも出席した。
非常勤講師は特別の場合を除き教科会議には出席しない。
ハ 原告は昭和五九年度の二学期からは補習や教材研究などで毎日必ず専任教諭と同様の午後五時まで勤務した。
ニ 原告は、専任教諭同様、体育祭など三浦高校の行事にも全て参加し、一定の役割を担当した。
ホ 原告は補欠授業を専任教諭と同等以上の約一八回担当し、昭和六〇年度の入学試験の監督も行った。
補欠授業を行った場合一時間あたり二〇〇円の時間外手当を受けるが、その額からみて非常勤講師には補欠授業を依頼しないのが原則である。
(3) 原告は昭和五九年度及び六〇年度の数学科受持時間数では専任教諭及び常勤講師に続き、新規採用にもかかわらず他の非常勤講師を越えてその上位に序せられている。
(4) 原告は教員室での席順でも専任教諭及び常勤講師に続き、他の非常勤講師の上位の位置に座らされた。
(5) 原告には個人用ロッカーが与えられていた。しかし、右ロッカーは専任教諭には全員与えられるが非常勤講師に与えられることは少ない。昭和五九年度採用の男子の非常勤講師では前記小林(専任教諭採用予定者)と原告のみが個人用ロッカーを与えられた。
(6) 数学科では専任教諭及び常勤講師が月額三〇〇〇円の親睦会費を拠出していたが、非常勤講師の中では原告のみがこれを徴収された。
(7) 原告は、三浦高校の卓球部及び写真部の顧問の教員からクラブの世話を頼まれたが、これも通常は非常勤講師には依頼がなく、右各顧問教員は原告が次年度以降専任教諭となることを認識して原告に右依頼をした。
(六) 昭和六〇年三月上旬に三浦高校数学科が作成した昭和六〇年度の授業編成に原告も組み込まれており、少なくともその時期まで、被告は原告を同年度も三浦高校で授業をする者として扱っていた。
そして、被告は、後記の原告の解雇の日である昭和六〇年三月一二日まで原告の後任を求人しておらず、その後になって急遽佐藤篤雄と周藤孝子の両名を非常勤講師として採用し、また同月かぎりで退職する予定であった日比野講師に依頼して引き続き講師として採用した。
(七) 理科大は、昭和五八年度に専任教諭の求人申込のある高校中に三浦高校を挙げている。
(八) 後記のとおり、松本校長は、昭和六〇年三月一二日に、原告を解雇する旨通知したが、その際原告を次年度専任にしないとの言い方をした。これは被告が当初は原告を初年度非常勤講師であるが、次年度以降専任教諭とする予定であったことを示すものである。
以上のことから、原告と被告の間には、「初年度非常勤講師で次年度以降は健康問題等特段の合理的理由のない限りその身分を専任教諭とする」との内容の期限の定めのない契約である本件契約が昭和五八年一二月下旬(遅くとも昭和五九年四月七日)に成立した。
3 原告に対する解雇
被告は、昭和六〇年三月一二日、原告に対し、原告の大学の成績を理由に次年度以降専任教諭としない旨通告してきた。原告はこれに対して納得のいく説明を求めたが、これに対し、被告は、「大学の成績に『可』が多く、その他健康問題も含めて総合的に判断し専任にしない。」「非常勤講師として続けてもらうかも決まっていない。決まるのは四月一日だ。」などと申し渡した。
そして、同年三月二四日の経過により原告の非常勤講師としての任期は終了したところ、被告はその後原告を解雇しようとしない。しかし、原告と被告の間の雇用契約は前記のとおりの期限の定めのない契約であるから、被告は、右により、原告の非常勤講師の任期を利用し、その雇い止めに名を借りて、契約上身分関係があるにもかかわらず原告を同日付けで解雇した(右解雇を以下「本件解雇」という。)。
4 本件解雇の無効
(一) 解雇権の濫用
(1) 前記一2(五)記載のとおり、原告は、三浦高校教師として専任教諭と同様の勤務をした。
(2) 原告の健康問題について
イ 原告は、学生時代の生活からみても、他の教師と比べ健康かつ活発な方である。
ロ 前記面接、採用時には、血圧が一応問題となったが、被告側からはこの点が特に採用に影響するような指摘はなかった。
原告は、採用後の昭和五九年度の二学期に、被告に指定されたとおり、三浦高校の校医である原稔医師により血圧の診断を受け、その結果就労は可能との診断を受けた。
被告はその後原告に対し血圧を含め原告の健康について何ら問題の指摘をしていない。
ハ 原告は、非常勤講師として勤務した一年間に、実兄の結婚式出席のため一度欠勤したほかは無遅刻無欠勤であり、勤務中病気等で欠勤や授業に支障をきたしたことはない。
ニ 原告は現在、本態性高血圧であるが、これによる就業への支障はない。
(3) 原告の理科大での成績について
原告は、採用面接の際、理科大での成績証明書を提出しているが、松本校長は、その上で、前記のとおり、原告に対し「健康上問題がなければ」「よほどのことがない限り」専任教諭にすると明言している。
また、大学での成績は採用するか否かの時点での判断につき考慮されるべきで、採用後の判断は教育実践能力や健康上の問題であるべきであって、原告を解雇するにつき理科大での成績を問題とすることは禁反言の原則に反し、合理性がない。
(4) 原告の三浦高校における勤務状況について
前記一2(五)のとおり、原告は専任教諭と同様の勤務条件同様の待遇を受けた。その間、原告は、プリント授業、小テスト、赤丸つけ、補習授業など、さまざまな教育実践をなしてきた。その結果、原告は生徒からもわかりやすい授業をする熱心な教師として受け入れられ、また他の教師からも高く評価されている。
(5) なお、被告は、本訴訟で述べている期限切れの主張については、昭和六一年七月二一日ころまでは全く主張していなかった。したがって、本件訴訟において右を主張するのは禁反言の原則に反する。
(二) 試用期間(留保解約権行使の違法)
(1) (仮に本件雇用契約が一年間の期限ないし期間の定めのある契約であると認められるとしても、)本件契約において抗弁記載の一年間の雇用期間の設けられた趣旨は、原告に健康問題など特段の事情の存否を判断して専任教諭に採用するか否か検討するというものであるから、右期間は試用期間である。
(2) 原告は、昭和六〇年三月一二日、松本校長から次年度には専任にしない旨通知された後、教頭(後に校長)の石井貞一(以下「石井教頭」という。)に被告の真意を確認したが、石井教頭は解雇の理由を明示せず、その後同月一九日、同月二七日及び昭和六一年三月一九日に行った三浦高等学校教職員組合(以下「三浦教組」という。)と被告との話合いないし団体交渉の席上、松本校長は、被告の代表者として、原告の一年間の雇用期間が試用期間であることを明言し、また、昭和六〇年四月一二日にも、三浦教組がなした原告の試用期間の延長の申入れに対し、右期間が試用期間であることを前提とした回答をなした。これらの事実は、被告が、原告の一年間の雇用期間が試用期間であることを認めていることを示すものである。
(3) (仮に本件雇用契約が一年間の期限ないし期間の定めのある契約であるとしても、)前記のとおり、原告は被告との間で、健康問題など特段の事情のない限り次年度以降専任教諭として採用するとの趣旨を含む契約を締結した。また、原告は、採用後被告や三浦高校関係者から、専任教諭と同じ職場で同じ職務に従事し、非常勤講師としての待遇面のほかには被告から受けた扱いにも特段変わったところはなかった。したがって、本件契約は解約権留保付雇用契約である。
(4) そして、前述したところに照らし、本件解雇は、専任教諭としての本採用の拒否すなわち留保解約権の行使の許される場合ではない。
(三) 不当労働行為
本件解雇は、被告が、原告の思想信条を嫌い、また、原告の組合加盟をおそれてなしたものであって、憲法一九条、労働基準法三条(信条などを理由とする差別的取扱の禁止)、労働組合法七条一項(不当労働行為の禁止)に反し無効である。このことは、被告の教育より経営を重視する方針や組合敵視の姿勢からも明らかである。
前記一4(二)(2)のとおり、原告が石井教頭に被告の真意を確認した際に石井教頭は解雇の理由を明示しなかった。また、石井教頭は、同年四月二八日にも、被告が三浦教組を嫌悪している事実を明らかにした。これらは、被告の解雇理由が不当労働行為に基づくものであることを示すものである。
5 賃金等について
三浦高校における月給支払日は毎月二〇日であり、被告の専任教諭に対する給与支払い基準により、原告が昭和六〇年四月一日以降平成三年一〇月二〇日までの間被告から受けるべき賃金は、別紙「換算年数算定基準式」及び同「換算年数及び給与計算表」記載のとおり合計二七四四万三八三〇円であり、同年一一月以降受けるべき賃金は右各記載の計算のとおり毎月二〇日ごとに月額二七万一二〇〇円を下回らない。
6 被告は、原告の三浦高校の教職員であり被告の被用者である地位は昭和六〇年三月二四日に終了したとして原告の地位を争う(なお、被告は、同日以後、原告に賃金を支払わない。)。
しかし、前記のとおり右通知及び解雇は合理性のないものであって無効であり、原告は三浦高校の専任教諭であって被告の被用者である。
よって、原告は、被告に対し、本件契約に基づき、労働契約上の権利を有する地位の確認と昭和六〇年四月一日以降の専任教諭としての賃金及び昭和六〇年四月から平成三年一〇月までの給与分に対する最後の弁済期の翌日である同月二一日以降の民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2について
(一) 同(一)のうち、原告が被告に採用されたこと(本件契約の日は昭和五九年四月七日である。)は認め、その余は否認ないし争う。原告の地位は非常勤講師である。
(二) 同(二)について
(1) 同(1)のうち、被告が、昭和五八年秋ころ、理科大就職課に三浦高校の数学科の教員一名の求人をしたことは認め、その余は知らない。
なお、被告の理科大に対する求人は、石井教頭が電話によりなしたものである。
(2) 同(2)は知らない。
右求人内容は、非常勤講師数学科男子一名、週持時間一六ないし一七時間、給与一時間あたり一六六〇円、交通費は二万円を限度に実費支給、ボーナスは一年につき月給与の5.9か月分を支給、その他の採用条件として、通勤時間一時間以内であること、提出書類として理科大就職課の定める必要書類一式を提出すること、新卒が望ましいがなるべく新卒とかけ離れないこと、翌年度以降専任教諭に採用されるケースもあるというものであった。
(3) 同(3)のうち、原告が被告に採用の応募をしたことは認め、その余は知らない。
(4) 同(4)のうち、原告が、選考書類を持参のうえ(なお、原告主張の書類中、担当教授の推薦書はなく、教員免許証は教育職員免許授与証明書の誤りである。)被告の面接試験を受けたことは認め、その余は否認ないし争う。なお、面接をしたのは、松本校長のほか、当時三浦高校の事務長であった高橋豊(以下「高橋事務長」という。)、同副校長の田中軍次、前記石井教頭の四名である。
(5) 同(5)、前段は否認ないし争い、同後段中、原告が主張するような内容の辞令の交付は認め、その余は争う。
(6) 同(6)は争う。
(三) 同(三)、第一段、第二段前半、第三段前半は認め(ただし数学科の定員は、専任教諭と常勤講師とで七名である。)、その余は否認する。
原告は非常勤講師であった吉村悟の後任である。
(四) 同(四)のうち、原告が主張する被告の教職員が専任教諭となったことは認めるが、被告ないし三浦高校に、初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭とする採用方式があることは否認ないし争い、その余は否認する。
(五) 同(五)について
(1) 同(1)のうち、昭和五九年度の原告の一週間当たりの受持時間が一九授業時間(一授業時間は五〇分)であったことは認め、その余の事実は否認する。原告の一週間あたりの受持時間は全教育職員中最長ではない。被告は非常勤講師で他に職業を持たない者に対しては受持時間を多くして収入の増大を図っていたから、授業持ち時間の多いのは当然である。
(2) 同(2)のうち、原告は月曜から土曜まで毎日持ち時間があったこと、数学科で毎週教科会議があったこと、原告が三浦高校の行事の一部に参加したこと、原告が補欠授業を約一〇回担当し、試験の監督を行ったことは認め、その余は否認する。空き時間ができることは三浦高校での授業時間の設定上いたしかたないことであり、他の非常勤講師でも同様である。また、被告は原告に教科会議への出席を義務付けていない。学校行事への参加は該当日に授業がある者に対し、費用を支出したうえ参加を依頼しているに過ぎない。補欠授業については補欠料を支払っており、これは全教員同様の扱いであるうえ、原告が行った補欠授業は数学科の主任の依頼によるものではなく他の教育職員からの個人的依頼によるものである。試験の監督は全教員が行っている。
(3) 同(3)は否認する。昭和五九年度の受持ち時間表では、原告は講師三一名中二六番目に記載されており、昭和六〇年度の表には原告の記載はない。
(4) 同(4)は否認する。教員室の席については、経験の浅い人がベテランの近くになるよう配置することが慣行となっている。
(5) 同(5)の事実中、被告が原告に個人用ロッカーを使用させたことは認め、その余は否認する。被告は、個人用ロッカーは他に支障がない限り非常勤講師にも使用させている。
(6) 同(6)は知らない。親睦会は教科内部の私的なものであり、被告は関与していない。
(7) 同(7)は知らない。被告は原告にクラブ顧問を委嘱したことはないし、顧問には手当を支給している。
(六) 同(六)、前段は否認し、後段は日比野講師が昭和六〇年三月限りで退職する予定であったことは否認し、その余は認める。
(七) 同(七)は否認する。
(八) 同(八)は否認する。
3 同3のうち、松本校長が昭和六〇年三月一二日に原告に対し同月二四日限りで契約が終了する旨通知したことは認め、その余は否認ないし争う。
4 同4について
(一) 同(一)について
(1) 同(1)は争う。
(2) 同(2)について
イ 同イは知らない。
ロ 同ロのうち、原告が、昭和五九年度の二学期に原医院で血圧の診断を受け、就労は可能との診断を受けたことは認め、その余は否認する。
ハ 同ハのうち、原告が一度欠勤したことは認め、その余は知らない。
ニ 同ニは争う。
(3) 同(3)については否認ないし争う。
(4) 同(4)のうち、原告が、プリント授業、小テスト、赤丸つけ、補習授業などをしたことは知らない。なお、原告の主張するような授業上の工夫は他の非常勤講師も行っていることである。
(5) 同(5)は争う。
(二) 同(二)、(1)は争い、(2)のうち、昭和六〇年三月一二日に松本校長が原告に口頭通知したことは認めるがその内容は否認し、石井教頭が原告と話をしたことは認めるが石井教頭が解雇の理由を明示しなかったとの事実は否認ないし争い(解雇との前提は争う。)、同月一九日、同月二七日及び昭和六一年三月一九日に被告が三浦教組と話し合いないし団体交渉を持ったことは認めるが、その余は否認し、同(3)及び(4)は否認ないし争う。
(三) 同(三)、前段の主張は争い、後段の事実は否認し原告の主張は争う。
5 同5の事実中、三浦高校の月給の支払日が毎月二〇日であること、被告に採用されるまで原告と同様の経歴を有する者が、被告の専任教諭に対する給与支払い基準により受けるべき給与が原告主張の通りの計算により原告の主張通りの額となることは認め、原告がこれを受けうる地位にあることは否認ないし争う。
6 同6、第一段の事実は認め、第二段は争う。
三 抗弁
1 雇用期間
(一) 被告は、原告を採用する際、原告との間で、雇用期間を昭和六〇年三月二四日までとする旨合意した。
(二) 本件契約は、原告が主張するような、「初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭」という内容の期限の定めのない契約ではない。三浦高校にこのような条件で採用された者はない。
(三) 被告が雇用期間を一年として教員(本件では原告)を採用することにした理由
(1) 被告が三浦高校において非常勤講師を雇用している主たる理由は、生徒数の一時的な増加に対応するためである。
三浦高校がある神奈川県三浦半島地区の学区においては、昭和五四年以降昭和六三年ころまで中学卒業生は急増し、その後は急減することが見込まれていた。そこで、三浦高校など同学区の私立高校はじめ各高校では、右急増期においてのみ、生徒数の増加に対応して教員数を増加させる必要があった。しかし、長年の雇用を前提とする専任教諭によって右一時期のみの教員増に対応することは経営上不可能であった。そこで、被告(三浦高校)も、この間暫定的に非常勤講師を雇用して生徒数の増加に対処する必要が生じた。
なお、非常勤講師は任期が一年であり、勤務条件や職務内容も専任教諭とは全く異なっている。このような非常勤講師の性質から、採用された講師の中には様々な理由で退職する者があり、それによる教師数の不足は再び非常勤講師によってまかなうことが必要であった。
(2) 原告は昭和五八年四月に非常勤講師として採用され昭和五九年三月で退職する予定であった米川悟の後任として採用された。
したがって、原告について長年教師として雇用するという前提はなかった。
(3) さらに原告には、後記2で述べるような様々な問題点があったが、特に2(一)(二)で述べるような事情からすれば、原告について雇用期間を定めないことはありえず、本件契約は非常勤講師としての一年間の雇用期間の定めのある契約である。
2 本件雇い止めの正当性(本件契約が期間の定めのない契約ないし試用期間付契約であるとして)
(一) 原告の健康について
(1) 原告が昭和五八年一二月下旬の面接において持参した健康診断書によれば、原告の血圧は、最高一六〇mm/Hg、最低九八mm/Hgと大変高かった。
右面接時、高橋事務長は、原告に対し、この健康状態では採用は難しいからさらに横須賀の保健所で再検査を受けるよう指示した。昭和六〇年一月になり、原告は横須賀保健所での再検査の結果が記載された健康診断書を持参したが、それによれば、再検査時の原告の血圧は最高一六〇mm/Hg、最低一一〇mm/Hgとさらに高かったうえ、原告は本態性高血圧であり、その両親も高血圧であることが判明した。
(2) 原告は現在も高血圧症のため通院中である。
(3) 本態性高血圧は、種々の重篤な疾患を引き起こす疾患である。
(4) 定年(六〇歳)までの永続的勤務を前提とし、その職務内容も非常勤講師に比して重い専任教諭に、本態性高血圧症の者を採用することはありえないことである。
(二) 原告の成績について
(1) 原告の理科大時代の成績は、数学専門科目中の必修七科目中、六科目がAないしCの三段階評価中最低のC(可)、一科目のみAという成績である。これは一般にも、被告に専任教諭として採用されている教師の大学時代の成績と比しても極めて悪い。
(2) 原告は理科大時代、進学のための単位が取得できないため二度にわたって留年(落第)している。
(3) 原告は、昭和五七年ないし五九年度の三回、公立学校の教職員に応募受験したが、いずれも学科試験で不合格になっている。
(4) 被告において専任教諭を採用するのは、定数に不足がある場合に限られるが、その場合でも大学における学業成績などの成績が専任教諭としての適性が判断される。
(三) 原告の三浦高校における勤務状況について
原告の一年間の勤務ぶりは、以下のとおり非常勤講師としてもその適性に欠けたものである。
(1) 昭和五九年度一学期の中ころ、原告の授業をみた石井教頭が、原告の教え方に問題があると判断し、その旨原告に指導した。
しかし、原告の授業については、その後もあまり変化がなかった。
(2) 二学期には、数学科内部を含む他の教師から、原告の授業がうるさく他のクラスの授業に支障があるとの苦情が出た。このため石井教頭が原告の授業を見にいったところ、廊下に出て遊んでいる生徒がいたり教室内が雑然としているなどの問題があり、石井教頭は生徒に注意した。
しかし、原告の授業については、その後もあまり変化がなかった。
(3) 高橋事務長も、原告の授業中生徒が廊下に出ているのを目撃した。
(4) これらの事実は、原告が力不足のため授業内容を生徒に理解させられず、そのため授業を成立させられなかったことを示すものである。
(四) 原告の人格態度について
(1) 原告は人格が傲慢であり、同僚に対しても挨拶すらしなかったことがある。
(2) 原告は補欠授業の申し出を断るなど協調性に欠け他の数学科教師に協力的でなかった。
(3) 原告は数学科以外の一般教員との融和にも欠け、社会性において欠陥があった。
(五) そして、被告が三浦高校において期間一年限りの非常勤講師を採用している理由は前記三1(三)(1)のとおりであって、被告が原告を三浦高校の専任教諭として採用しないことになんら問題はない。
四 抗弁に対する認否反論
1 同1のうち、(一)は否認し、その余は否認ないし争う。本件契約の性質は前記のとおりである。
2 同2について
(一) 同(一)について
(1) 同(1)のうち、原告が昭和五八年一二月下旬の面接において持参した健康診断書に被告主張のような記載があり、昭和六〇年一月の横須賀保健所での再検査の結果原告の血圧が被告主張のとおりであったこと、原告が本態性高血圧の診断を受けたことは認め、その余は否認する。
(2) 同(2)の事実は認める。
(3) 同(3)は否認ないし争う。
(4) 同(4)は争う。
(5) 反論
原告の高血圧は勤務に影響がない。また、原告の血圧については前述のとおり採用時にはさほど問題とされていなかったことであり、この点を解雇理由(留保解約権の行使理由)とすることは禁反言の原則に反する。
(二) 同(二)について
(1) 同(1)のうち、原告の成績は認め、他の専任教諭の成績は知らない、その余は否認ないし争う。
(2) 同(2)は認める。
(3) 同(3)は認める。
(4) 同(4)は争う。
(5) 反論
教師としての資質に大学時代の成績は無関係である。また、理科大は進級の難しい大学であり、原告と同様の留年をした学生もある。また、原告の成績は本件契約時には何ら問題にならなかった。
(三) 同(三)について
(1) 同(1)のうち、昭和五九年六月九日ころ、石井教頭が、原告の授業中教室に入ってきたことは認め、その余は否認する。
(2) 同(2)は否認する。
(3) 同(3)は否認する。
(4) 同(4)は争う。
(四) 同(四)について
(1) 同(1)は否認する。
(2) 同(2)のうち、原告が他の教師から依頼された補欠授業の申し出を断ったことがあることは認め、その余は否認する。断ったのは一回だけであり、それも正当な理由があった。また前記のとおり、原告はその後約一八回補欠授業をしている。
(3) 同(3)は否認する。
(五) 同(五)は争う。
第三 証拠関係<省略>
理由
一被告が学校教育法により三浦高等学校(以下「三浦高校」という。)及び三浦中学校を設置することを目的とする学校法人であること、原告が、遅くとも昭和五九年四月七日に昭和五九年度の教職員として被告に採用されたこと、その際、原告は、被告から、「三浦高等学校非常勤講師を嘱託する」「期間は昭和六〇年三月二四日までとする」と発令事項の記載がある辞令(以下「本件辞令」という。なお、本件辞令を記載した<書証番号略>を以下「本件辞令書」という。)を受領したこと、昭和六〇年三月一二日に、被告が、原告に対し、同月二四日以降雇用しない旨を通知したこと(右通知及びその後被告が原告を被告の被用者と扱っていないことを以下「本件雇止め」という。)はいずれも当事者間に争いがない。
二本件事案の争点は、原告が本件辞令のとおり期間を一年として右期間の経過に伴い当然に退職すべき非常勤講師として被告の経営する三浦高校に採用されたか、それとも、初年度は非常勤講師で次年度以降は健康問題、その他教職員として継続的な採用をとり止めるべき事情が存在する等合理的理由のない限り、その身分を専任教諭とする期限の定めのない契約のもとに採用されたかの点にある。
以下順次検討する。
三三浦高校の教職員の種別と採用方式等
1 教育職員の種別と職務内容
<書証番号略>、証人松本彦義、同石井貞一の各証言及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。
(一) 三浦高校では、昭和四九年四月一日から、学校法人三浦学苑就業規程(<書証番号略>)、同非常勤講師勤務規程(<書証番号略>)を施行した。同校における教育職員の種別としては前記就業規程の適用を受ける専任教諭、常勤講師のほかに同非常勤講師勤務規程の適用を受ける非常勤講師の三職種があり、これら教育職員をもって教科担当の職種とした。右教育職員の職務内容は右規程上なんら規定されていないけれども、専任教諭は、教育職員として採用された者で生徒の教育、技能など教育全般をつかさどり、常勤講師は、教育職員として採用された者で専任教諭の職務を補助することとされた。一方、非常勤講師は専任教諭と異なり学級、校務担当はなくその雇用期間も一年と定められ、期間満了によって当然退職するものとされた。したがって、非常勤講師はいわば臨時的な教育職員で、専ら教育過程の改正、選択教科希望生徒の増加、入学生徒の増加等に対応して採用され、教科時間の臨時的な補助を職務内容としている。
(二) 以上のように非常勤講師が雇用期間の定めのある雇用契約上の地位であるのに対し、専任教諭、常勤講師は、いずれも期間の定めのない雇用契約とされる。ただし、専任教諭、常勤講師については、その採用にあたって、六か月以内の試用期間を設けることができ、右試用期間中または試用期間満了の際、引き続き就業させることを不適当と被告から認められたときには解雇することができる(就業規程六条)。しかし、三浦高校において右就業規程施行以来、右試用期間の制度を併用して新たな専任教諭を採用した事例はない。
(三) 三浦高校での新規教育職員の採用方法は、松本彦義校長(以下、「松本校長」という。昭和五一年五月一日学校長就任、同六三年三月末日退職)によれば、学校経営上の理由から①非常勤講師、②常勤(専任)講師、③初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭の三種類があった、と要約されている。
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
以上認定の事実によれば、三浦高校における教育職員の雇用形態は、就業規程そのものが極めて簡潔なものであるため、雇用に関する諸点に明らかとはいえない部分があり、また、同校における採用方法も含めてみると、必ずしも規程と実際が整合するとはいえない。
2 専任教諭採用の実態と雇用形式
(一) <書証番号略>(ただし、上部欄外及び学校名欄、備考欄、推薦者欄の欄外の各書き込み部分を除く。)、証人石井貞一の証言(ただし、後記採用しない部分を除く。)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
三浦高校では、教育職員の募集は、生徒数の増減に伴う教科の単位数、教職員の欠員等を勘案しながら求人してきたが、現校長である石井貞一(昭和五九年当時は教頭。以下「石井教頭」という。)が東京理科大学(以下「理科大」という。)の卒業生であったことから、理科大に対し何回となく求人申込みがなされてきた。原告の場合もその一例である。三浦高校が原告を非常勤講師として採用した次年度の昭和六〇年度に理科大に対してなした「求人申込書(専任教諭)」と題する文書(<書証番号略>)の記載内容(ただし、上部欄外及び学校名欄、備考欄、推薦者欄の欄外の各書き込み部分を除く。)によれば、被告は、右求人申込みにおいて、初年度は非常勤講師だが次年度以降専任教諭の雇用条件のもとに求人をしている。
また、昭和五四年度に三浦高校に採用された猪狩竹夫、清水正一の両名は、初年度は非常勤講師として採用されたが、次年度以降は専任教諭になった(この点は当事者間に争いがない。)。
以上の事実が認められ、右認定に反する証人石井貞一の供述部分は前掲各証拠に照らし採用できず、他に右認定を覆すに足りる的確な証拠はない。
(二) <書証番号略>、証人猪狩竹夫、同松本彦義、同石井貞一の各証言及び原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 三浦高校では、専任教諭を採用する場合、専任教諭に欠員ができても、直ちに専任教諭として採用はせず、まず非常勤講師として採用し、一年間教育職員として勤務させた後、その様子をみて引き続き専任教諭として継続的に雇用するという運用を始め、これにより専任教諭を補充していくことを雇用の方針としてきた(証人松本彦義の平成元年一一月二〇日付証人調書二三九ないし二四一項)。
このような採用方針のもとに、三浦高校で将来専任教諭となりうる者を雇用する場合、その対象となる新規採用者としては、大学を卒業した者で採用時において概ね三二歳までであり、かつ通勤時間は一時間以内の者であることを原則とし、右採用者の給与等労働条件については初年度非常勤講師として前記非常勤講師勤務規程(<書証番号略>)に基づいてこれを規律し、翌年度以降は専任教諭として前記就業規程(<書証番号略>)に基づいて勤務時間等の労働条件を定める。この場合、定年、退職金等は別途定められた付属規程による(就業規程一二条、一三条、<書証番号略>)。
(2) 初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭として採用された者は、前記猪狩及び清水のほかに、数学科など一般教養科担当の教職員の中でも相当数存在する。たとえば、昭和六〇年度採用の小林(旧姓福田)勢以子、昭和五七年度採用の浅川俊一(数学科)、昭和六〇年度採用の車田浩道(数学科)である。その他、小沢生哉は、昭和六〇年度機械科の非常勤講師として採用された後、昭和六一年に数学科の非常勤講師として採用され、次年度専任教諭となった。
昭和五五年度から、原告が採用された昭和五九年度までに採用された採用時三二歳未満の者は合計一五名(原告を除く。)である。このうち、他の学校等への就職や結婚等のため被告を退職した者が七名、他校と兼務する者が一名、現在も三浦高校に勤務している美術の教師が一名あり、以上九名を除く六名の次年度以降の経過のうち、四名が専任教諭ないし常勤講師となっている。その外は一年で退職した美術の教師が一名、不明一名である。
かかる形態により採用された者に対して、初年度の一年間は三浦高校の教育職員としての適性を判断するための期間でもあった。
(3) 三浦高校では、実質的にも臨時的な教育職員である非常勤講師としての地位において職務に従事する者もいたが、このような教育職員は、他の学校にも職を有する兼務者、他の学校に就職を希望している者、定年後に三浦高校に職を求めてきたもの、その他特に継続的に雇用されることを希望しない者等に限られ、これらの者は非常勤講師としての身分を明確にして雇用された。また、専任教諭と同じように期限の定めのない雇用契約上の地位を有する常勤講師として当初から雇用された者もあったが、そのほとんどは時期的には相当以前のことであり、またその数はごく少数の教職員に限定されていた(なお、昭和六一年度には常勤講師として採用された二名の者があったが、いずれも次年度に専任教諭となった。)。
以上の事実が認められ、右認定に反する証人松本彦義、同石井貞一の各供述部分、<書証番号略>の記載部分は前掲各証拠に照らし採用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
(三) 以上検討してきた諸事実をあわせ考察すると、原告が採用された昭和五九年ころ、三浦高校では、大学新卒者ないしこれに準ずる者を専任教諭として採用する場合に、教育職員の雇用形態として、初年度は非常勤講師として採用し、翌年度は専任教諭となる採用方式が存在し、現にそのように運用されてきたこと、当初から専任教諭として採用し、六か月の期間の試用期間を付する扱いは全く存在しなかったこと、次年度以降専任教諭になる非常勤講師は、前示した実質的にも臨時的な教育職員としての非常勤講師とは異なる面をもっていたことが認められる。
被告は、三浦高校における非常勤講師は、あくまで雇用期間を一年として採用された臨時的な教育職員で、専ら生徒数の一時的な増加に対処するため設けられた職種で、次年度以降専任教諭となるべく雇用されるものではないと主張する。
確かに、非常勤講師の職種が生徒数の急増急減等に対処するための調節的役割を果たす職種として設けられた面のあることは本件証拠上否定できない。しかし、三浦高校では雇用期間を明確に一年間に限定して雇用された臨時的教育職員としての非常勤講師のほかに、初年度は非常勤講師としての身分において勤務するが、次年度以降は専任教諭となる雇用の形態が存し、その旨現に求人申込を含め雇用の現状において運用されてきたことはすでに検討してきたとおりである。もっとも、初年度は非常勤講師であるが次年度以降専任教諭となる雇用の方式についてその契約関係を規律する就業規程はなく、非常勤講師としての身分については前記非常勤講師勤務規程(<書証番号略>)の適用を受け、専任教諭としての地位においては前記就業規程(<書証番号略>)によって規律されるものと解され、その契約関係に整合性を欠く面があって不安定な要素があることが一応肯定できる。しかし、だからと言ってこれまで検討してきた雇用の実態と運用を無視し、次年度以降は専任教諭となるとの点をすべて切り捨て右雇用方式は、辞令どおり単純に臨時的教職員としての非常勤講師の雇用にほかならず、一年の雇用期間経過後は当然に失職すると結論することはできない。特に、大学新卒ないしこれに準ずる者を採用する場合、雇用者及び被用者のいずれもが、特段の事情がない限り、短期間の臨時的就職ではなく長期間にわたる安定した就職を望み、かつこれを想定して労働契約を締結することがわが国における一般的傾向であり、三浦高校で初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭として大学に求人申込をし、これを雇用の形式として採用してきた理由も右雇用の一般的実情に沿いこれに適合する形式として採用してきたものとみるのが正当である。
被告の前示主張は、三浦高校での辞令上のみならず実質的にも一定の臨時的性格を強くうかがわせる類型の非常勤講師、いわば純然たる非常勤講師については正当であるが、その実態においては臨時的性格を客観的に示しているとはいえない類型の非常勤講師については直ちにあてはめることはできず、理由がない。
四そこで次に、原告がいかなる雇用形態のもとに三浦高校に採用されたかどうかをみる。
1 <書証番号略>、証人猪狩竹夫、同松本彦義、同石井貞一、同高橋豊の各証言、原告本人尋問の結果を総合すると、つぎの事実が認められる。
(一) 原告は、昭和五一年四月、理科大の第二部数学科に入学し、二度にわたって留年したのち、昭和五七年三月二〇日、理科大を卒業し、将来とも継続的に私立学校の教師として勤務すべくその道を求めた。原告(当時、満二五歳)は、昭和五八年一二月、理科大就職課に掲示してあった被告(三浦高校)の教員求人申込書を見て、三浦高校の教員を志望してこれに応募し、同月下旬ころ、三浦高校に出頭し面接試験を受けた。
(二) 原告は、右の採用面接試験において、理事兼校長の松本校長、事務長高橋豊(以下「高橋理事長」という。)、副校長田中軍次(以下「田中副校長」という。)、石井教頭と面接した。その際、松本校長から雇用期間、教員資格、昇進形態について格別の話は出なかった。原告は、遅くとも、昭和五九年四月七日、三浦高校の教職員として採用された。
2(一) 原告がどのような労働条件で雇用されたか、との判断にあたり求人申込書の記載内容は重要な資料である。
しかし、本件においては、原告が応募した昭和五九年度の理科大に対する求人申込書は証拠として提出されていない。
(二) ところで、原告は、右年度の求人申込書の内容を証明する証拠として原告作成にかかるメモ(<書証番号略>)を提出する。そして原告は、当法廷において、右メモは原告が右当時掲示されていた求人申込書をノートに写し、その部分を後日ノートから破いたものであり、その記載内容は掲示されていた求人申込書を正確に転写した旨供述する。
しかし、<書証番号略>の体裁、記載を仔細に点検すると、すでに文章が書かれているノートを後日破ったとするならば、その破断状況からして文章の一部がこれにかかるのが自然であるのにそのような事実は認められない。文章は、用紙の破断状況に沿って欠落することなく曲線をなして配列記入されている。
以上によれば、特段の事情が認められない本件においては、<書証番号略>はあらかじめ破ったノートに後日文章が記載された疑いが強く、原告の右供述とは矛盾するものであり、証拠としての価値に乏しいものといわなければならない。
3 そこで<書証番号略>及びこれに関する原告の供述部分を除いた証拠に基づき、原告の採用時の雇用条件などを以下に検討する。
(一) 前記認定事実に加え、<書証番号略>、証人猪狩竹夫、同小林道昭、同松本彦義、同高橋豊、同石井貞一の各証言(ただし、証人松本彦義、同高橋豊、同石井貞一については、いずれも後記採用しない部分を除く。)、原告本人尋問の結果(ただし、後記採用しない部分を除く。)、弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められ、右認定に反する証人松本彦義、同高橋豊、同石井貞一及び原告の各供述部分、<書証番号略>の記載部分はいずれも前掲各証拠に照らし採用できず、他に右認定を覆すに足りる的確な証拠はない。
(1) 原告は、満二五歳で三浦高校に応募し、将来とも三浦高校の教職員として教職に従事したいと考えていた。
(2) 原告は、昭和五九年四月七日、松本校長から非常勤講師として採用する旨明記した本件辞令書を交付された。その際、原告は、松本校長から特に雇用期間や資格に触れる話を受けなかった。
なお、原告は、田中副校長の指示に従い、当日の始業式で、専任教諭となる予定の者という理由から、新任教員を代表して挨拶をした。右式典後、原告は、同年度に採用された非常勤講師である小林道昭(以下「小林」という。)、半田珠美、鈴木美恵子の三名とともに校長室に出頭し、松本校長に対し改めて挨拶をした。その際、同校長は、原告及び小林は次年度以降専任教諭となる可能性があるが、他の二名についてはこれを否定する趣旨の発言をした(<書証番号略>、証人小林)。
(二) 原告の勤務内容
(1) 受持時間
<書証番号略>、証人猪狩竹夫、同石井貞一の各証言、原告本人尋問の結果によれば、三浦高校においては、専任教諭の受持時間は週一六ないし一七時間で非常勤講師の受持時間は週一二時間程度とされていたが、次年度専任教諭になった猪狩、清水の両名は初年度の非常勤講師の時期において専任教諭と同等の受け持ちをしていて、原告の昭和五九年度の受持時間数(一週あたり一九時間であったことは当事者間に争いがない。)もこの点同様であると認められる。しかも、被告は、原告が雇止めされた後に佐藤篤雄と周藤孝子の両名を非常勤講師として採用したが、昭和六〇年度の数学科教師の受持時間で非常勤講師の担当受持時間は週一七ないし一九時間とされていたこと(<書証番号略>)からして、被告は右受持時間を前記二名の非常勤講師によって処理しようとしたことが窺われる。いずれにしても、原告の受持時間は昭和六〇年の三浦高校教育職員の中でも多い方であり、非常勤講師としては特に多かったものといえる。
(2) 原告の勤務実態
イ 原告が月曜から土曜まで毎日必ず持時間(授業)をもったことは当事者間に争いがない。証人石井貞一の証言、原告本人尋問の結果及び<書証番号略>によれば、原告の持ち時間の間には、空き時間のあることがあり、特に月曜日と金曜日は昼休みをはさんで二時間連続の空き時間があったこと、昼休みをはさんで各二時間連続の空き時間があることは空き時間として長いものであること、この場合右空き時間も事実上拘束されることになると認められる(証人石井貞一は、非常勤講師の場合は、担当授業の間隔がなるべく空かないように時間割が作成されると供述しているが、その理由は右の点にあると認められる。)。
ロ 原告本人尋問の結果によれば、原告は当時の教科主任である山之内教諭(以下「山之内主任」という。)の指示に従い毎週数学の教科会議に出席したことが認められる。<書証番号略>によれば、山之内主任は数学科において新任の教師には教科会議に出席依頼していたことを認められるが、さらに他の新任教師が教科会議に出席していたことを認めるに足りる証拠はない。弁論の全趣旨によれば、少なくとも純然たる非常勤講師が教科会議へ毎回必ず出席することは通常なかった模様であると認められる。
ハ 原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、三浦高校の専任教諭の勤務時間は午後五時までであり、原告は昭和五九年度の二学期からは毎日午後五時まで勤務したことが認められる。
ニ <書証番号略>、証人猪狩竹夫、同石井貞一の各証言、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告は補欠授業を非常勤講師として勤務した一年間に約一八回担当したこと、三浦高校では純然たる非常勤講師は補欠授業をしないのが原則であること、一年間に補欠授業を一八回するということは、その性質上、一人が担当する回数としては相当程度多数であることが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
なお、被告は他の非常勤講師でも補欠授業をしていると主張するが、原告と同程度以上の回数の補欠授業を行っている非常勤講師がいたことを窺わせる証拠はない。また、被告は、教科主任等が依頼したのではないと反論するが、これを認定しうる証拠はない。むしろ、補欠授業が教科主任や教頭などの全く知らないところで一年間に一八回も行われるということは考えられず、前記認定事実によれば、原告の補欠授業については被告が関与、知悉していたと推認される。
(3) <書証番号略>、証人猪狩竹夫の証言、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すれば、原告は、昭和五九年度及び六〇年度の数学科受持時間数の表では専任教諭及び常勤講師に続き、他の非常勤講師より前にその氏名が記載されていたこと、この時間表の存在は、山之内主任を通じ石井教頭、松本校長らも知っていたことが認められる。
(4) <書証番号略>、証人石井貞一の証言、原告本人尋問の結果によれば、三浦高校数学科が昭和六〇年三月上旬に作成した昭和六〇年度の授業編成に原告も組み込まれていることが認められる。このことからは、少なくとも同時期まで、数学科授業編成担当者は原告を同年度も三浦高校で教員として稼働する予定の者として扱っていたことが認められる。
また、<書証番号略>、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によりいずれも原告が昭和六〇年四月六日ころ三浦高校の時間割表示板を撮影した写真と認められる<書証番号略>によれば、昭和六〇年になっても、被告が昭和六〇年度も原告を教育職員として雇用する予定であったこと、原告を雇止めした結果生じた教師不足に対し、急きょ、昭和五九年度かぎりで被告を退職する予定であった日比野講師を充てて対応したことが認められる。
(三) 以上(一)及び(二)認定の諸事実、すなわち、原告採用時における被告の対応、原告の数学科担当の教員としての職務内容とその実態、昭和六〇年度の三浦高校の授業の編成と担当時間割りに原告が組み入れられていたことなどを考えると、原告は三浦高校に昭和五九年度は非常勤講師、次年度以降は専任教諭となることで雇用されたものと認めるのが相当である。このことは、前述した原告のような大学新卒者の就職の実情等からも十分肯定できるところであって、原告は将来とも教師として勤務することを志して被告に応募したものであり、その雇用期限を一年間としてのみこれに応募したとする特別の事情は本件証拠上まったく認められない。被告としても、この点を十分わきまえながら原告を採用したことはこれまで検討してきた諸事実や本件証拠上これを窺うに十分である。被告は原告に対し、同人を採用するにあたって特にその雇用期限を一年間とし一年後には辞めてもらうなど純然たる非常勤講師としての雇用条件として最も重要な点についてなんら説明していない。かえって、松本校長が始業時の面接に際して原告に対し次年度以降専任教諭となりうることを述べていたことは既に認定したところである。原告に対する求人も昭和六〇年度の理科大に対する求人申込書(<書証番号略>)と同じように初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭としてなされたものと推認するに十分である。
なお、被告は、原告は昭和五八年度に採用され同年限りで退職した米川悟の後任であるから原告の雇用期間は米川のそれ同様一年限りであると主張する。
しかし、証人石井貞一の証言によれば、昭和五八年中ころから終わりころに、当時三浦高校数学科の専任教諭で昭和五七年四月から病気のため休職中であった吉村泰の昭和五九年度以降の復職が不可能であることが判明ないし確定したことが認められるから、原告は米川と吉村のいずれの後任であるともいえる。そして、証人松本彦義の証言によれば、米川は、三浦高校で一年間非常勤講師として勤務した後郷里に戻るつもりでいた者であり、現に次年度は他県の県立高校に就職したことが認められる(同証人の平成元年六月五日付け証人調書二〇二、二〇三項、同年一一月二〇日付け証人調書二七二項)。そうすると、米川は、もともと前述した雇用期間一年間のみの臨時的な教育職員として稼働するため三浦高校に就職した者で、継続的な雇用を求めていた原告とは異なるものであるから原告と米川の雇用事情を同一視することはできない。米川が原告の採用される前年度に一年間のみ非常勤講師として勤務した事実をもって、原告が米川の後任であり、したがって原告の雇用期間は米川のそれ同様一年限りである根拠とすることはできず、右事実は原告と被告との本件雇用契約についての前記認定をなんら左右するものではない。
右のことは、米川に関する求人申込書である<書証番号略>(弁論の全趣旨により真正に成立したと認める。)が前述した本件求人申込の内容に比して極めて簡略なものであることからも裏付けられる。
五ところで、初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭とする三浦高校での雇用形態がどのような法律的意味をもつかを検討する。
以上認定の事実関係を前提として総合的に判断すると、次のとおり認められる。
被告が、新規教育職員を初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭として雇用する場合、初年度の雇用条件は非常勤講師勤務規程(<書証番号略>)に、次年度以降のそれは専任教諭として前記就業規程(<書証番号略>)にそれぞれ従う。そして被告は、初年度の非常勤講師として勤務する一年間を、次年度以降専任教諭として引き続き就業させることが相当であるか否か、その適性を判断するための期間としても利用し、運用していた。この雇用形態は、規程上は明確なものではないが、この点において、前示した臨時的な教育職員としての性格で一貫した非常勤講師の場合とは画然とした相違点を示す。してみると、初年度非常勤講師、次年度以降専任教諭とする雇用形態は、必ずしも臨時的な教育職員としての性格で一貫した制度とはいえず、継続的雇用形態の実質を備えた変則的なものである。したがって、かかる雇用形態の法的性質は、初年度は非常勤講師の地位にあるが、次年度以降は専任教諭としての教育職員として適性において不相当であると認めるべき事由の存しないことを停止条件として専任教諭として雇用する旨の教育職員雇用契約であると解するのが相当である。
六本件雇止めの合理性
前記雇用形態のもとに、被告が原告を専任教諭とせず、雇止めをするについては、その雇用の性質からして通常の場合における解雇の場合よりもより広い範囲の雇止めが許されると解して妨げない。しかし、それは決して恣意的なものであってはならず、客観的に合理的理由があり社会通念上相当として是認されるものでなければならない。
以上の観点に基づいて、原告の適性に三浦高校の専任教諭として不相当とすべき理由がないといえるか、換言すれば本件雇止めに合理的理由があるかどうかについて検討する。
1 原告の専任教諭としての適格、適性について
(一) 原告の健康について
<書証番号略>、証人松本彦義、同高橋豊、同石井貞一の各証言、原告本人尋問の結果(ただし、いずれも後記採用しない部分を除く。)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 原告は、昭和五八年一二月下旬の面接時において持参した健康診断書によれば、血圧は最高一六〇mm/Hg、最低九八mm/Hgであったため、右面接時、高橋事務長からさらに横須賀の保健所で再検査を受けるよう指示を受けた。昭和五九年一月、原告は被告に横須賀中央保健所での再検査の結果が記載された教職員採用志願者健康診断書(<書証番号略>)を持参した。それによれば、原告は、再検査時における血圧は最高一六〇mm/Hg、最低一一〇mm/Hgであり、既往症として本態性高血圧があり、その両親も高血圧である。そして、原告は現在も高血圧症のため通院治療を続けている。原告は、右健康診断書二通によれば、血圧以外はすべて正常である。
(2) 原告は、前記面接及び採用時において、血圧について一応問題とされたが、右が特に採用問題を左右するほど重要な問題として取り上げられてはいなかった。また、原告は、昭和五九年度の二学期に、被告に指示されて三浦高校の校医である原稔医師から血圧の検査を受け、「精検の結果就労可能と認めます。」との診断を受けた(<書証番号略>)。原告は、右検査時の血圧は面接当時の血圧と比べ変わった点はなく、その後、被告から血圧を含め健康状態について何らかの問題が伏在する等の指摘を受けたことはない。原告は、被告に勤務した一年間に、実兄の結婚式に出席するため一度欠勤したほか、病気等で欠勤や授業に支障をきたしたことはない。
(3) 原告の健康状態について、以上のほか、三浦高校の専任教諭としての勤務をするうえでの問題はない。
以上の事実が認められ、右認定に反する証人石井貞一、原告の各供述部分は前掲各証拠と対比するとき未だ採用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
(二) 原告の成績について
前記認定の事実のほか、<書証番号略>、証人松本彦義の証言、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 原告は理科大時代、数学専門科目中の必修七科目中、六科目がC、一科目がAという成績であった。
(2) 原告は、理科大時代二度にわたって留年し、また、昭和五七ないし五九年度の三回、公立学校の教職員試験に学科試験で不合格になった。
(3) しかし、原告の採用面接等の経緯のなかで右のような成績等が正式に問題視されたことはなかった。そして、その後における原告の勤務態度等の評価が、後記授業状況に関係する点を別論とすると、大学における学業成績や教員採用試験の合否との関連で被告内部で論議されたことはなかった模様である。
(三) 原告の三浦高校における授業状況について
<書証番号略>、証人猪狩竹夫、同松本彦義、同高橋豊、同石井貞一の各証言及び原告本人尋問の結果(ただし、後記採用しない部分を除く。)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 昭和五九年六月九日ころ、石井教頭から、原告の授業の進め方や教室運営の方法に問題があるとして指導を受けたことがある。原告が担当した授業において時に喧騒があり、石井教頭は昭和五九年度中一回、生徒が授業を抜け出して廊下に出ていることを現認した。また、石井教頭や高橋事務長は右のほかにも原告の授業中に廊下で騒いでいる生徒がいたことを見たが、その細かい事情などは明らかではない。そして、三浦高校において原告の授業以外は総て静かな授業ばかりとはいえなかった。
(2) 原告は、非常勤講師として勤務した一年間に、他の専任教諭と比較して、教師として必要な教育姿勢ないし熱意に特に欠けるところはなかったが授業の進め方や教室運営においては石井教頭から注意を受けるなど改善すべき余地を残した。もっとも、かかる側面について、被告側の校長、教頭、教科主任が原告に対し格別の指導をしたことはなかった。
以上の事実が認められ、右認定に反する原告の供述部分は前掲各証拠に対比するとき未だ採用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
(四) 原告の人格態度について
弁論の全趣旨によれば、原告は、非常勤講師として勤務した間、通常の人格態度を持つ社会人として生活していたと認められる。なお、被告は、原告は人格が傲慢であり、協調性に欠け、社会性において欠陥があったと主張するが、被告の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。
以上認定した事実関係によれば、以下のとおり認められる。
原告は、三浦高校での一年間の勤務を通じて、一応健康で通常の教育職員としての学校生活を送ってきたものといえる。その人格態度は、普通であって、数学科教諭としての授業能力なども改善の余地は少なくないとしても、高校教諭としての適性・能力において欠けるというような程度の学問的能力の欠如を認めることはできない。
したがって、原告については、次年度以降は専任教諭としての教育職員として適性において不相当であると認めるべき事由は存在しないことを認めることができる。かくして右雇用契約における停止条件が成就したと認められるので、原告は、昭和六〇年四月一日以降被告の三浦高校における専任教諭として雇用されている契約上の地位にあるものというべきである。
七賃金等について
三浦高校の職員の月給の支払日が毎月二〇日であること、被告に採用されるまで原告と同様の経歴を持つ者が、一年間の非常勤講師を経て、昭和六〇年四月一日以降、三浦高校の専任教諭となった場合、被告の専任教諭に対する給与支払い基準により受けるべき給与等が、原告主張の額であることはいずれも当事者間に争いがない。
そうすると、原告は、被告に対し、別紙「換算年数算定基準式」及び同「換算年数及び給与計算表」記載のとおり、被告から、昭和六〇年四月分から平成三年一〇月分までの給与分合計二七四四万三八三〇円とこれに対する同月二一日以降の遅延損害金及び同年一一月分以降の給与として毎月二〇日限り二七万一二〇〇円の支払いをうける権利を有するというべきである。
八結論
以上の次第であるから、原告の労働契約上の地位を争う被告に対し、労働契約(本件契約)上の権利を有する地位にあることの確認と、過去及び将来の賃金の支払いを求める原告の各請求はその余の点について検討するまでもなくいずれも理由がある。
よって、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を、仮執行宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官神田正夫 裁判官稲田龍樹 裁判官橋本一)
別紙換算年数算定基準式<省略>
別紙換算年数及び給与計算表<省略>